人生は刹那の連続

おもしろ、おかしく。時にはまじめに生きていく

走れ、オレ。

 路行く人を押しのけ、跳はねとばし、メロスは黒い風のように走った。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴けとばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。一団の旅人と颯さっとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「いまごろは、あの男も、磔にかかっているよ。」ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げ、メロス。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。メロスは、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、シラクスの市の塔楼が見える。塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。

走れメロス青空文庫より引用)

 

ぼくの心の独白

 

ぼくはメロスではないが、一週間前から走る行為、ランニングをしている。

人は、何かを続けることに対し、意味を見出す。○○のためにするのだ、と。その際、必ずモチベーションを考える。

今日はできるけど、明日は厳しいかなと思う時もある。

何かを始めるのは、難しい。

口で言うのは、簡単だ。しかし、実行には移せない。

なぜか。それは、実行する勇気がないのか、はたまた実行しても続けられるか勇気がないのか。

 

ぼくは、ランニングをはじめた。

ぼくは、近日ライザップに通う。

ボディメイクをしに行く。

大金を支払った。

ぼくは、変わりたいのだ。

ライザップに通う前に、少しでも体力や、有酸素運動を自ら行えるような思考や行動、モチベーションの変革をしたかった。

ランニング、言葉はカッコいい。クールだ。

ぼくは、喘息持ちだ。

通常、ランニングは推奨されないからだだと思う。

だが、ランニングを始めて思ったことがある。

楽しい

走ることが、こんなに楽しいのか。

初日は、全然走れないことよりも、これほどまで自分の体は重いのかと思った。

しかし、続けてみると、体感的にほんの少し軽くなったような気がした。

最初は、家の近所しか走ってないのに息があがった。

しかし、徐々にだが走れる距離が長くなると、何故だか楽しいのだ。

走れる距離が長くなったことによる喜び、いや走れることに喜びを見出しているのか。

走るのは、辛い。息があがる。

だが、段々走れるようになってきた。

はたから見れば、腹が出たやつが走っている姿は滑稽に映るだろう。

しかし、ぼくは走る。

いつかメロスの様に、走れるために。

走れ、自分。駆けろ、未来へ向かって。